サービス開始日: 2017-07-17 (3363日目)
達観しているように見えたアリの、年相応の弱さが印象的な話だった。
「好きな人にはいつだってカッコつけたいもんね」というエスタの言葉は、アリ自身がうまく言葉にできずにいた気持ちを、代わりに言語化してくれたのかもしれない、その後の、少しスッキリしたようなアリの表情からは、一歩踏み出せたような印象を受けた。
セイランの死をきっかけにしたミミとシーナの心の変化と衝突、そしてその収束を12話までで描き、13話でアリの内面を描いたことで、セイランの死を受けた3人それぞれの心情の変化が綺麗にまとまったように思う。
プロに対する心構えは、相と心で少し違っていたのかもしれない。それでも、心が「同情は創作の敵じゃなかったんですか」「もっと面白い漫画描けます」と強く主張したのは意外だった。
これまで二人の関係は、相が内向的な心を引っ張るように見えたが、ここでは逆転していた。心の言葉が相に漫画を修正する決意をさせたことは、心の成長を感じさせる場面だったと思う。
そして明らかになる手島先生の過去。
自分が面白いと思うものではなく、アンケート結果など他人からの評価にがんじがらめになり、文字通り筆を折ることになった姿は痛々しかった。
一方、コミティアを経験し、漫画との向き合い方を広げた相は、漫画を描くのが趣味の範囲でも、プロを目指していても、「好きなものを描くなら、どっちでもいい」と言い切る。
その言葉を聞いた手島先生が、アイディアノートに「無敵の女子高生!!」と書き込むのが印象的だった。相を通して、手島先生自身の漫画との向き合い方にも変化が生まれたのだと思う。
幼い頃の相にとっては、手島先生の『ロボ太とポコ太』が友だちを作るきっかけになった。
そして今度は、手島先生の漫画によって人格を形成した相が、手島先生を再び漫画へ向き合わせていく。
筆を折るまでになった手島先生が、再び創作への意欲を見せるようになった姿は、心を動かされるものがあった。
1話を見返してみると、さらに面白い。
1話で「端的に言えば(漫画は)全て嘘」と言い切った手島先生に対して、12話では相が「漫画は嘘じゃなかった」と言い切っている姿が印象深く残る。
さらに1話で相は、『ロボ太とポコ太』を「理屈ばかりのロボ太に、感情の大切さをポコ太が教えてくれる」物語だと説明していた。
なんだか手島先生にとってのポコ太は、ある意味で相だったのかもしれないと思えてくるのも興味深い。
手島先生が描いた『ロボ太とポコ太』によって相という「無敵の女子高生」が生まれ、その相によって手島先生自身が変わっていく。
漫画によって影響を受けた人が、時を経て、その漫画を生み出した人に影響を与えていく。
そんな「好きなものを描く」ことの連鎖と循環に、この作品の面白さを感じずにはいられなかった。
サブタイトルが「どうしてこうなった」でも良いのではと思える最終話。
久しぶりの本格的な戦闘シーンは、緊迫感のあるターニャの戦いぶりに引き込まれ、戦闘曲が好みなのもあって純粋に楽しめた。
ルーデルドルフにとって、真実を知らないまま最期を迎えたことは、せめてもの救いと言っていいのか、それとも、真実を知ることができなかったという意味で残酷と言っていいのか、複雑な気分になる最期だった。
ゼートゥーアがルーデルドルフの後釜に収まり、戦争の出口に向かうのかと思いきや、まさかのイルドア侵攻へ。
ゼートゥーアとルーデルドルフは、目的こそ同じでも手段が異なったために、ルーデルドルフが排除されることになったはず。
それなのに、結局はルーデルドルフが進めようとしていたイルドア侵攻が始まり、見ているこちらも「どうしてこうなった」と言いたくなる展開だった。
ルーデルドルフの死は無駄になったとは思いたくないが、ゼートゥーアが何を考えているのかが気になる。
権力を得たことでゼートゥーアが変わったのか、それとも存在Xの仕業なのか、あるいは、ゼートゥーアはイルドア侵攻そのものに戦争の出口を見いだしているのか。
いずれにしても、続きが気になる展開だった。
ミミとシーナが、お互いがお互いを大切に思っていることを確認し合い仲直りしたのは、素直に良かったと思える展開だった。
サブタイトルの「わたしのままで」は、シーナが「でも、やっぱりミミのやり方に賛成はできない」と言ったことを表していて、
仲直りするために自分の考えを曲げるのではなく、シーナはシーナのまま、ミミはミミのまま、お互いの考えを尊重し、受け入れていく、そんな意味合いが込められているのだと感じた。
それはそれとして、セイランとアリの喧嘩が、喧嘩と呼ぶほどのものに感じられなかったのは、ちょっと微笑ましかった。
お互い、少し拗ねただけのようにも見えたが、逆に、あれを喧嘩と呼ぶくらい二人の仲が良かったということなのかもしれない。
ローワンの言う通り、茉里を刺し貫くことで光は現れた。しかし、それはララ自身が本当に望んでいたものではなかった。
結局「本当の愛」を見つけ、人魚の世界に光をもたらすことは、ララにとって周囲から勝手に期待された役割に過ぎず、本当の願いは「茉里のいる世界にいたい」ということだったのだろう。
つまるところ、『さよならララ』とは、周囲からの勝手な期待から抜け出し、自分が生きたい明日を選ぶ、エゴの物語だったと言っていいのかもしれない。
この作品を見ていると、「本当の愛」とは何なのかを考えてしまう。
実際、自分も「本当の愛」は単なる恋愛ではなく、もっと大きな意味での、すべてを包み込むような愛なのだと予想していた。
なんなら第8話の感想で書いたように、本当の愛にたどり着けば物理的に存在しなくなり、人魚の世界を照らす光となって、人魚の世界を愛し、命を与え、守る。そんな存在へと進化するのではないか、とまで考えていた。
しかし、視聴者としてそういった「本当の愛」の在り方を想像すること自体、愛とはこういうものであるべきだと、ララに押し付けることだったのかもしれない。
ララ個人の選択には納得できる。
一方で、ローワンたちは徐々に光を取り戻しつつあるとはいえ、元の人魚の世界は復活せず、ローワンの人間に対する考えも変わらない。結局、人魚の世界が抱えている問題は先延ばしになっただけ、とも受け取れる。
これはララが自分の望むものを選択した以上、当然の帰結なのだろう。現実的な決着と言えばそれまでだが、少し物足りなさを感じてしまうのも正直なところだ。
茉里が大事なのはもちろん、家族も、出会った人々も大事。人魚も人間も関係なく、すべてを選びたい。
そんな欲張りなエゴがあってもよかったのではないか、と思ってしまう。